春風館道場へようこそ

春風館道場は、名古屋市中川区に本部を置く、尾張藩伝来の武術である尾張貫流槍術、柳生新陰流兵法(剣・槍・杖・やわら)、円明流(二刀)、新当流(槍・長刀)など、伝来する技を修練する道場です。門下生は、10代~70代までの男女を問わず幅広く在籍し、日々鍛錬と研鑚をかさねながら、確かな技を次の世代に繋げていきたいと思い活動をしています。

春風館道場の集合写真
3代目館長就任式にて

流儀

尾張貫流槍術

流祖・津田権之丞平信之は、明暦元年(1655年)生まれ。幼少より諸般の武術を学び、とくに槍術を好み、「伊東流」を虎尾三安の門人・森勘兵衛に学びました。勘兵衛が尾張藩を退去後、更に佐分利円右衛門忠村を師とし、16歳にしてその奥伝を得、以来朝鍛夕練し、ある日、豁然として「横手長短心理一貫」の極意を自得し、管に活機の妙のあることを知り、新しく一派をたて貫流(津田流・津田貫流・一兮流)と称しました。

信之は、1692年、尾張藩槍奉行として三百石を賜りました。尾張藩主・徳川吉通は殊の外熱心で、他藩に伝えることを禁じたことから「御止流(おとめりゅう)」とされました。

尾張貫流槍術の形の一場面

尾張貫流槍術は「試合に始まり形に終わる」とされ、防具を着用した地稽古を中心に行います。「管槍」の長さは3.6メートル(二間)、これに「管」を使用します。「管」を使用することで、敵の刹那の崩れを見逃さずに素早く槍を繰り出すことができ、繰り引くスピードと、螺旋状に繰り出される破壊力も発揮できます。

流儀では槍・剣二芸は「車の両輪、鳥の双翼のごとし」、「槍法を知らずして刀術を語ることなかれ、刀法を知らずして槍術を語ることなかれ」と伝えられ、「とのもの太刀」として尾張藩に伝来する新陰流・新当流・円明流など伝来の技も修練しています。

第46回日本古武道演武大会での一場面
柳生新陰流兵法「山学」の一場面

柳生新陰流兵法

戦国時代末期、伊勢国住人・愛洲移香斎久忠が刀法天稟(てんぴん)の才をもって諸国を遊歴。36歳の時、日向国・鵜戸権現に参籠して刀理の悟りを開きます。これを「陰流」と称しました。上野国・上泉伊勢守秀綱(のちに武蔵守信綱)は愛洲移香斎と懇弟となり、兵法修行の功を建て「陰流」の内より「転(まろばし)」の一道を発明し、「新」の一字を加え「新陰流」と名乗りました。

秀綱は武田信玄公の招きに応じず、疋田豊五郎、鈴木意伯の二人を従え諸国回遊の旅に出ます。永禄7年〈1564年〉、秀綱53歳の時、新当流無双の達人といわれた37歳の柳生新左衛門(柳生但馬守宗厳・石舟斎)と三度試合し、三度とも新左衛門に利あらず。ここに師弟の契約を結びます。上泉伊勢守は「但馬は兵法執心深きにより、よく当流の秘奥を感得せし事を知る」「この上は予が年来の望みなる無刀にて勝つことを考案せられよ」と言い残し、西国巡遊の旅に出ます。

第29回西日本古武道大会での一場面

柳生但馬守宗厳は師の言葉を守り昼夜寝食の間も不忘遂にその理を極め、永禄8年(1565年)、上泉伊勢守秀綱が柳生谷に立ち寄った際、柳生但馬守宗厳はその見解の理を語ります。上泉伊勢守は甚だ感じ入り、「但馬は大和一国の名人なり。以降柳生新陰流を名乗るべし」と伝え、ここに柳生新陰流が誕生しました。

尾張柳生は、尾張徳川家の祖・徳川義直の兵法師範を務めた柳生兵庫助利厳(如雲斎)をもって初代としています。利厳隠居後は京都妙心寺塔頭・麟祥院に「柳庵」を結び数年を過ごし慶安3年(1650年)、妙心寺で死去し麟祥院に葬られました。戒名を「春光院殿閑叟如雲居士」。なお麟祥院には初代・神戸金七先生、二代加藤伊三男先生も葬られています。

春風館道場師範 神戸信夫

春風館道場初代館長・神戸金七先生が道場名を「春風館」としたのは、「春光院(柳生利厳)」の流風を伝えようという意志であると述べています。「春」という文字に三重五重の心得あることを示し、流祖・柳生宗厳(石舟斎)、尾張柳生の祖・柳生利厳(如雲斎)の教えを忘れないためにこれを文字であらわしています。

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